境界線の起源〜「自分」とは何か?〜
Yujiroのザレゴトその1: 「境界線の起源」〜「自分」とは何か?〜
※ここに記されていることはDNBとは全く関係のない非モテ陰キャのリア充である僕の戯れ言、故に脈絡も無く、科学的根拠にも乏しく、ほぼ全ての人にとっては何の価値も無いばかりかむしろ毒になり得ることなので、貴重な時間を失って後悔する前に離脱することをオススメする。それにも関わらず不特定多数の人が閲覧できるこの場所にコレを公開する理由は明白だと思うけど、各々で勝手に推測・判断していただければ幸いである。
なんとなんと、5月に入った途端に11月6日以来更新の滞っていた自己ベストを呆気なく(?)更新してしまったのだ。実に182日振りの自己最高Nレベル更新である。(N=41で正答率79%!)
困ったことに、こうなるとすぐに「欲」が出てくる。「欲」は意識を未来に向ける。故に「欲」は推進力にもなるけど、同時に真の幸福を遠ざける毒でもある。なぜなら真の幸福は、「今、ここ」にしか存在しないからさ。(だって、今最高に幸せじゃん?これ以上何を望むっていうの?)「欲」を原動力にするなら、その「欲」を満たした時に得られるのは一時の快楽と、さらなる「欲」だ。この「欲」の道を辿って辿って、僕はN=41まで到達した。
これはまだ僕の中で未解決の矛盾だな。DNBのおかげで僕はありのままの自分でいられるようになった。無理して有能ぶることも、知ったかぶることも、善人ぶることも、努力家ぶることもなくなった。「欲」を追求して得た力のおかげで僕は静かな自信を手に入れた。
これはエニアグラムのタイプ5(※1)が力技で根元的恐怖から逃れたということだろうか?そんなことが可能なのか?いや、僕はまだ思考の世界の住人であり、社交性は皆無。ZONEに入っていた時を最も理想的な状態だと考えるなら、僕の現在の行動にはまだまだ問題がある。(正解を「知っている」というのは本当に大きい)その問題とは「恐れ」であり、DNBのおかげで自信を手に入れたとはいえ、僕の言動はまだ「恐れ」に縛られているってわけだ。
僕は孤独をこよなく愛す。プライベートな時間まで誰かの相手をしなければならないという状況は耐え難い。飲み会に参加したりすれば、時間を無駄にしたという罪悪感に苦しむことになる。僕はこれをもっと若い頃に散々経験したので、もう飲み会に参加することはない。そして送別会など、「自分が主役にさせられる機会」は全力で回避する。(こういう時、「アレルギー体質で外食できない」って事実はとても役に立つ!)故に今の僕には友達も彼女もいないけど、そのおかげで心身を健全に保てている。当然「独りだと寂しい」と言う人の気持ちが全く理解できない。
僕はこのような自分の性質を基本的には大きなアドバンテージだと思っているけど、「独りじゃないと耐え難い」と感じるということは、「行動の自由が制限されている」ということだ。つまり、「独りで過ごす」という僕の選択は、無限にある選択肢の中から自分の自由意志によって選んだものではなく、「恐れ」によって制限された選択肢の中から僕が仕方なく選んだものにすぎない、ってわけさ。(「自由意志」なんてものが存在するかどうかは別にして)
そして、その「恐れ」とは、やはり「人から無価値だと評価される」ことに対する恐れだろう。それがタイプ5である僕の根源的恐怖だ。要するに、僕が人と距離を置くのは、「人に自分は無価値だと思われることを心底ビビっている」からってこと!(ここ、僕の1番痛いところだから、誰にも言わないでね?)
(※1)僕が「エニアグラム」と出会ったのは、23才くらいの頃だったと思う。カフェでフランス語を勉強していたときに高齢のフランス人に流暢な日本語で話しかけられ(営業?笑)、フランス語を教えてもらうことになり(1回2000円!)、何度目かのレッスンのときに彼に紹介されたのだ。
その本に目を通したときの感動は今も鮮明に覚えている。「僕が探していたものはコレだ!」と、強烈に感じた。というのも、この頃の僕はパン屋で働いており(つまり、グルテンまみれの生活さ!)、自分の中で膨れ上がる「理不尽な不安」の原因と解決策を追求していたからだ。恐らくこれが僕の「メタ認知的思考習慣」の起源だろう。
このベルナールという名のフランス人は、自身を「エニアグラムのタイプ5」であると言い、そのエキセントリックな性格や風貌(”Back to the Future”のドクみたい!)、洞察が深く博識で議論好きなところから、確かに疑いの余地は無いと思った。(もちろん、彼がカフェで僕に声をかけたことから考えても、彼の健全度は僕とは比べ物にならないくらいに高かったけど)僕はこのベルナールさんに不思議な親近感を覚えたし、僕も自分のことを恐らくタイプ5だと考えるようになった。そのことをベルナールさんに話すと、彼は満足気に頷いた。恐らく彼も、タイプ5であるが故にエニアグラムに辿り着き、僕に何か彼自身と似ている部分があると感じたからこそ、それを紹介してくれたのだろう。
ただ、当時の僕にはそこまで自分がタイプ5であるという確信はなかった。成功欲や見栄っ張りな気質が強かったため、当時の僕は自分のことをしばしばタイプ3かもしれない、とも考えていたからだ。そして、お金や家や車や地位や権力や容姿端麗なパートナーなど、大多数の人が価値があると思うものへの興味関心を失い、社会的承認とは無関係の、思考の世界に沈潜する時間が至福となった現在、僕はやっぱりタイプ5だと確信することになった。
エニアグラムの根底にあるのは、「性格は『根源的恐怖からの逃避』と『根源的欲求の過剰な追求』によって形成されるけど、この性格というのは自分の本質とは無関係である」っていう概念だから、「もっと自分を理解したい」とか「もっと人を理解したい」って人にはオススメだ。エニアグラムはけっして僕たちを箱の中に入れて分類するために存在するわけではなく、僕たちがすでに入っている箱(性格)について、そして、その箱から出るための方法についてを教えてくれるのだ。「箱から出る」が意味すること?もちろん、それがZONE(フロー)ってわけさ!「自分(自我)」と完全に同化しているときは、「箱に入っている」ことにさえ気づけない。「箱に入っている」=「本能の洗脳下にある」ってこと!だから「箱から出る」ためのファースト・ステップは「箱に入っていることに気づく」こと。この気づきにどれほどの価値があるかは、各々の価値観に従って好き勝手に判断すればいいのではなかろうか。
DNBで幾ばくかの自信を得たといっても、僕の言動は未だにこの「恐れ」に「操られている」。でも、これは当然だ。なぜなら、そもそも「恐れ」というものは何かを獲得することによって消したり克服できるものじゃないからだ。考え方が逆なのだ。「恐れ」は消せない。だったら、「自分」を消せばいいじゃな〜い?(は?)
どういうことか?
全ての生物は、この世に生を受けた瞬間から本能の洗脳下にある。(もちろん、必ず例外はあるけれど)本能は、主に自律神経系によって構築されている生物の自動生命維持システムを補完している。この本能が「欲」や「恐れ」を使って僕たちの言動を巧みに操り、僕たちが「性格」として認識しているものを形成してるわけだけど、ここで特に重要なのは「恐れ」を操る自己防衛本能だ。
この自己防衛本能のミッション(使命)は、主人である僕たちの「自分(自我)」を守ることだ。つまり、「自分」がこれからもずっと存在し続けられるように、「自分」を脅かすものから「自分」を守ることがこいつの使命ってこと!
自己防衛本能がこのミッションを遂行するには、まず守るべき対象である「自分」というものを認識しなければならない。「自分」を認識するためには、「自分」と「自分以外」を区別する必要がある。「自分」と「自分以外」を区別するには、「自分」と「自分以外」の間に境界線を設けなければならない。これは上頭頂小葉(または方向定位連合野)と呼ばれる脳部位がやってくれるそうだ。これによって境界線の内側が「自分」であり、外側が「自分以外」であることが明確になり、晴れて自己防衛本能が守るべき対象である「自分」というものを認識できるようになる。(僕たちが「自分」を認識できるのはこの機能のおかげってこと!)つまり、僕の考えでは、「自分」というものは「自己防衛本能に守るべき対象を示すための単なる位置情報」に過ぎないってわけさ!
守るべき対象が明確になった今、自身のミッションを遂行するために自己防衛本能が利用するのが情動や感情だ。自己防衛本能は不安・恐怖、怒り、憎しみ、憂い、悲しみといった感情を利用して「自分」を巧みに操る。もちろん、「自分」を脅かすものから「自分」を守るためだ。例えば、不安や恐怖という感情を「自分」に与えれば、「自分」に恐怖を与えるものからの逃走を促したり、「自分」に怒りや憎しみという感情を育ませ、恐怖を与えるものとの闘争を促すことができる。これがいわゆる「闘争・逃走(Fight or Flight)反応」ってやつさ!誰だって「自分」を惨めな気持ちにさせるやつがいたら、①そいつから逃げるか、②そいつをぶっ●したいって思うでしょ?んで、タイプ5の根源的恐怖を持つ僕の場合は、①を無意識的に選択しやすいってわけさ。
まあ、ここで僕が何を言いたいかというと、これらの不快な感情は「自分」を守るために、悠久の時の中で洗練された生物の自己防衛システムの一部、ってことで、それはつまり、「自分」が無ければ存在しないも同然の感情ってこと!だって、守るべき対象である「自分」を認識できなかったら、自己防衛本能は何を守ればいいのかわからなくなっちゃうでしょ?こうなってしまえば、「恐れ」を含めたネガティブな感情は、もう僕たちの問題にはならない。「恐れ」を消せないなら、「自分」を消せばいいじゃな〜い?って、さっき僕が(頭悪そうに)言った意味、なんとなくわかってもらえたかな?
(第③の選択肢、または極端な①を選んでしまう人たちも、「生物学的な死」以外にも「自分」を消す方法があると知っていれば、絶望から一気に最上級の幸福へ至れるのに・・・と、僕は考えてしまう。「『自分』なんか要らない」「『自分』なんか消えちゃえばいい」絶望の淵に立たされた人のこのような考えはまさに本質をついている。「自分」があるから「苦」があるのだ。そして、自殺なんかしなくても「自分」は消せる。アルコール?モルヒネ?確かにストレスに圧倒されている人がこれらに手を出すのは、無意識的にこれらが「苦」の原因である「自分」を消してくれると知っているからだろう。アルコールなら手に入れるのも容易だ。アルコールには、エンドルフィン(内因性モルヒネ)とエンドカンナビノイド(内因性大麻)の分泌を促す作用がある。恐らく、これらが「自分」を肥大化させるエサとなるストレスを消し去ることで「自分」の力を奪うのだろう。僕たちはありとあらゆる手を使って「苦」から逃れ、「快」を追求する。ただ、この方法は長期的に見れば結局命を削ることになるので根本的な解決策にはならない。まあ、「自分」を消す云々考えなくても、「ストレス解消は大事!」ってことは誰でも知っているから、これを健康を害さない方法でやればいいのかな?)
では、ここで問題です。
どうしたら「自分」を消せるでしょうか?
正解は、「上頭頂小葉にお寝んねしてもらう!」です。
さっきも言ったように、脳には上頭頂小葉(または方向定位連合野)と名付けられた部位が存在する。こいつの役割の1つは、「自分」と「自分以外」を区別する境界線を設けることだ。こいつがいつもきちんと仕事をしてくれているから僕たちは「自分」というものを認識できるし、「自分」と「自分以外のその他」を区別することができるのさ。
でも、問題もある。なぜなら、こいつがいつもクソ真面目に働いているせいで、「自分」は常に自己防衛本能の監視下にあるからだ。このような状況下では、僕たちの「自分」は、自己防衛本能が「自分」を操るために利用するネガティブな感情に苦しまなくちゃならない。ここまで文明を発達させるほどの知能を持った人類が未だに(他の生物と同様に)コレに苦しめられているって状況を俯瞰すると爆笑を禁じ得ないけど、「欲」や「恐れ」といった感情が人に無ければ文明がここまで発達することはなかっただろうし、そもそもそれらが無ければ生物として今日まで生き残ることもできなかっただろうから、生きるために飲まなくちゃいけない毒として、今後も不快な感情と共に生きるのも1つの手だ。(っていうかそれが普通。そもそも他の選択肢の存在にすら気づかない)
だけどそれが嫌なら、解決策はある。最も強力なのが先に話した「自分」を消す、って方法だ。「自分」を消すには「自分」と「自分以外のその他」を区別する境界線を設けている上頭頂小葉に「ちょっとお寝んね」してもらえばいい。そうすれば、「自分」と「自分以外のその他」を区別している境界が曖昧になって、自己防衛本能が守るべき対象である「自分」を認識できなくなるから、彼が「自分」を守るために利用する不快な感情も感じなくなるってわけさ!
「いったんこうなると、境界線を引いて、ここで自己は終わり、ここからそれ以外の世界が始まる、と言えなくなってしまいます。そのため脳は、自分は万物とひとつになっていると結論する、というより、結論するしかないのです」
『超人の秘密』p.131 – トーマス・ジェファーソン大学・神経科学者アンドリュー・ニューバーグ
「境があるから内と外ができ敵ができる。国境があるから国々ができ戦いつづける。だからあいつは国を一つにまとめるんだ」
漫画『キングダム』(27巻) – 飛信隊隊長・信
つまり、境というのは外にある脅威から内を守るために築かれた壁であり、その境の起源は、僕たち生物の脳の中にあるってこと!だから、世界の国々を1つにまとめるだけでは平和は訪れない。真の平和が訪れるのは、全人類の脳の中からこの境界線が消えたときだ。そのとき初めて僕たちは、万物と1つになる。
千里の道も一歩から、というわけで(はないけれど)、まずは僕自身が万物と1つになることを目指す。(僕は僕が満足できればそれでいいからさ!)つまり、一時的なZONE体験じゃなくて、ZONE状態を恒常化すること。(セルゲームに挑む悟空と悟飯が精神と時の部屋でやったことと同じ!)それがZONEを体験した時からの僕の目標だ。本能というシステムから逃れた生物が、今度はどのようなシステムの基に動き、どのような能力を発達させるのか。すでに前例はあるのかもしれないけど、それを自分自身で体験・観察できたら最高だ。
進捗状況?
まだまだ遠いようでもあるけど、次の瞬間にはあっさり達成してしまう感じもする。つまり、「手応えはある」ということだ。これは最近僕にもたらされたいくつかの刺激(及びそれに対する僕の反応)に起因するものだと考えているけど、その中でも「感謝の瞑想」の効果が凄まじい。(この効果も最近僕にもたらされた刺激によって増大した)
まず毎日30分か40分の「感謝の瞑想」をするようになった理由は、とにかく「最高に気持ち良い」からだ。僕は「感謝の瞑想」をするときは必ず”The Best of MOZART”っていうアルバムの7曲目に入っている「クラリネット協奏曲」をイヤフォンで聴きながら行う。ZONEに入った当時、これが「僕の身体に合う」って気づいたからだ。あの頃も早朝筋トレ後帰宅して自室の椅子に座ってこの曲を聴きながら瞑想していた。(大量のカフェインを含んだプレワークアウトドリンクを飲んで筋トレした後だっていうのにしょっちゅう微睡(まどろ)んでしまうほどの睡眠不足だったけど)
まあ、とにかく、この曲を聴きながら感謝の瞑想をすると、鳥肌が立つようなシビレを伴った大きな快感が得られるのだ。僕はこのシビレを「歓喜のシビレ」って表現してるけど、瞑想中にコレがお腹で起こり、脊椎を駆け上がって脳幹に達し、そこからさらに頭頂葉や側頭葉へ波及し、最終的に前頭葉まで包み込むのだ。この最高に気持ちのいい「歓喜のシビレ」が瞑想中に何度も何度も湧き起こるのだから、これだけでも感謝の瞑想をする理由にはなる。
だけど、感謝の瞑想の効果はそれだけではない。ストレスが一気に吹き飛ぶのだ。この瞑想とメタ認知的思考習慣のおかげで最近はほぼストレスフリーで生活しているけど、日中に少しばかり溜めてしまったストレスも瞑想直後には雲散霧消してしまう。この頭と心の晴れ様をどう表現したらいいだろうか?
ストレスは自我を肥大化させる。(または自我との同化を促進する)いつもならなんて事のない出来事でも、ストレスが溜まっている状態では感情が大きく乱れる。僕の感情が乱れるときは大体コレが原因だ。睡眠不足でコルチゾールやノルアドレナリンが過剰に出ている状態だと「不安」や「恐れ」が力を持ち、「怒り」を呼び起こす。人より「不安」や「恐怖」を感じやすい体質だからこそ身に付けたメタ認知的思考習慣。これらの不快な感情を一切感じずに過ごすことができたらどんなに素晴らしいだろうか?感謝の瞑想には、自我のエサとなるストレスを一掃することによって、この僕の理想を実現する力がある。
そんなわけなので、感謝の瞑想中には「自分」というものを見つけられなくなる。「歓喜のシビレ」も含め、これはZONEに入った時と酷似している。「全てにただただ感謝」「死ぬことが怖くない(死ぬって何?)」「全てが愛おしい」「全てに愛されている」「無敵」「最高に幸せ」という感謝の瞑想中に得られる感覚は、ZONEに入っていた時に体感したものとほとんど同じだ。これが感謝の瞑想という意思の力ではなくて自動で持続すれば、ZONEになると思われる。
(ZONEに入った2度とも「スイッチが入った」後にZONE状態が30分ほど続いた。その間意思の力は必要なく、「歓喜のシビレ」が何度も何度も自動的に湧き起こり、それが力強く全身に波及した。このとき身体のバランスが完璧になったことから、普段は神経伝達物質が届かない場所にさえ、何らかの理由でZONEに入っている間はそれが完璧に届けられていたと思われる。ただ単に生成される神経伝達物質の量なのか?それを受ける受容体の感受性が上がったのか?それらが分断されていた神経細胞を繋げたのか?自分の背後が「視える」と感じるほど全身の感覚器官の感受性は研ぎ澄まされているにも関わらず多量のセロトニン、エンドカンナビノイド、βエンドルフィンによって(?)「痛い」「痒い」「暑い」「寒い」などの不快な情報は遮断されていた。)
その時の体調によって起こる「歓喜のシビレ」には強弱がある。このシビレはお腹から起こるので、特に腸内環境の良し悪しが影響していることは間違いないだろう。腸内で作られた神経伝達物質が変換を繰り返しながら脊髄を伝って一瞬で脳に達する。さらにテストステロン値もシビレの強弱を左右する要因かもしれない。コルチゾール値とテストステロン値は逆相関関係にある。コルチゾール値が低くなればテストステロン値は高くなる。テストステロンが神経伝達物質たちの指揮者のような役割を果たしていると考えれば、僕がZONEに入った2度ともその前日にたっぷり日光浴をしていたことと合わせて、得られる「歓喜のシビレ」の強弱に影響を与えている可能性は高いと言えそうだ。
そして、感謝の瞑想中に得られる「歓喜のシビレ」の強弱の下限と上限が上昇している。以前は強くても前頭葉にまでシビレが届くことはほとんどなかった。側頭葉に届くようになったのも最近だ。これを「たまたま調子が良かっただけ」と考えることもできるけど、習慣的な「感謝の瞑想」によって「神経回路が育ったから」と考えることもできる。超楽観主義者の僕は当然後者の方が好きだ。”use it or lose it.” 使わない神経回路は失われてしまうけど、繰り返し使われる神経回路は強化・最適化される。神経伝達物質の流れが感じられるほどの「感謝の瞑想」で、その神経回路が育たないと考える方が不自然だ。僕はこの神経回路を最高に洗練させて、再びZONEに入り、その状態を恒常化する。
ZONEに入ったときと異なる点は、「鼻水が出る」ことだ。「歓喜のシビレ」が起こると必ず鼻水が出るのだ。これは副交感神経が優位になったからだろうか?まあ、ZONEに入った2度とも身体を動かしていたわけで、リラックスしていながらも交感神経がやや優位になっていたから鼻水が出なかったのかもしれない。感謝の瞑想は座して行うため動きはない。故に副交感神経が優位になり易いのかもしれない。
「苦」と共に生きることが生物の宿命なら、僕は生物であることを拒絶する。
この神経回路を極限まで洗練させて、僕はこれを達成する。
(クソリプ大歓迎!「僕」は傷つくかもしれないけど、僕は傷つかない。ただのリプを「クソ」と認識するのも「自分」を通して見るからさ!)